日々の雑感を綴る場所。いつか何かを得られることを願って
ニコ動は重くて見れないし、2chは規制で書き込めないし、俺はいったいどうすればいいんだ。
カラオケ板に書き込めいとか泣ける。 日常の話。 明日から1年間で1番楽と噂される実験が始まる。ということは、今週から3週間はかなり空き時間ができるということだ。 今のうちに妄想を膨らませとくか。 PR 懐古厨死ね。思い出の美化による現在の否定は、醜いだけだ。何も得られない。痛々しい。
前を向いている人は時間の流れに背中を押されながら生きているのに、彼らはただひたすら後ろを向いて、流れを真正面からもろに受け続けている。それでいて、いくら踏ん張っても周りと同じスピードで流される。そして流れの先にある障害物に気づけずに激突する。足をとられる。そうやってぼろぼろになって、ほれみろ今の自分はクズだ昔を良かったなどと馬鹿丸出しに垂れ流す。 そうやって懐古することでしか自分を確立できないやつ。現在を否定しなければ自分を認めることができないやつ。懐古厨は醜い。自ら進んで苦しんでいるのを、目に見えない巨大な何かのせいにしているだけだ。 前を向けば、選択しなければならない。後ろを向けば、選択はできない。流されるままどこか知らない場所にたどり着く。そのころには、彼らは巨大な何かに打ちのめされていて、ぼろ雑巾のようになった彼らを誰も見向きもしない。 それは、選択する苦しさとどっちがより良いだろうか。そんなの決まってる。得るものがなければ死んでいるも同然だ。死んでいるも同然なのに、生きている自分を疑問に思う。そして死ぬ。もっとも醜い生である。 はあ、また一元論だ。彼らは醜いが、もっとも救われない。誰も苦しみたくて苦しむやつはいない。自分がもっとも苦しまずにいられる場所が懐古だったとしたら、かわいそうなのはむしろ彼らなのだ。 結局、多くのことを考えたとて、すべてはメビウスの輪だ。裏について考えていたつもりなのに、いつの間にか表についても考えさせられている。それは無限大の領域だ。そして、無限大は人間には扱えない。いわば神の領域である。人は神を欲する。そして、神の領域はもう一つあるのだ。ゼロ。神を欲した人間が無限大にたどり着けないと悟ったときに、行き着く場所。それがゼロだ。 ゼロと無限大は神の領域である。誰にも扱えない。 堂々巡りの思考には飽きたな。何にもたどり着けない。たどり着くとすれば、今言った神の領域。誰にも扱えない、不変の領域。理解不能の真理。 ああ、どうでもいいけど、っていうか全然違う話になるけど、やっぱり橋本紡さんの本はすごいと思った。氏の本は、私の理想によく似てる。ここまでこのブログを読んでくれた奇特な人がいれば、ぜひ氏の「流れ星が消えないうちに」という本を読んでみてください。今年文庫化されたらしくて私もまだ半分くらいしか読んでないけど、私が小説を書こうと思ったときに、こういうのが書きたいと思ったものに本当に似てる。新潮文庫より、500円くらいです。 子供のころ、ゲームに出てくるラスボスはなんで世界を破滅しようとするんだろう、そんなことしてどーすんだ馬鹿じゃねーのって思ってたけど、今になってみるとわかっちゃうのがなんか悲しい。 ノートPCを持ち込んでのヒトカラに初挑戦しました。録音もしてみましたが、やはり音量不足でしたね。どうしてもボーカルが前に出てこないです。
だけど以外に上手く録音できることがわかったので、まずまずの結果かな。あとは私側の問題ですね。本気で声を出して歌ったら、30分でへばることがわかりました。 いやあ、きついね。力が全然入らなくなる。プロはこれを2時間続けてやるんだから、ホント凄いっすね。しかも声量をでかく保とうとすれば音程が上手くとれないんだよ。なかなか高いクオリティを出せないです。上手く歌うのって難しいな。 歌はミクのを中心に歌ってみました。恋は戦争が気持ちよかったなー。また練習しに行こう。 というわけで、ヒトカラレポートでした。でわでわ 二次元キャラとの結婚を法的に認めてくれという署名活動が公に行われているようだが。 今日のニコ動ランキングより。センスが神すぎる。 パンクは日常にこそよく馴染む。破壊すべき標的だからだ。そういう意味では、らき☆すたはパンクを表現する上で最高の舞台かもしれない。 3連休の平均睡眠時間は12時間をゆうに越えていただろう、私です。カラオケに行こうと思ってたのに結局行きそびれた。 ”リアリティ”と”表現が丁寧な妄想”は違う。これは読むほうにも言えることだが、書くほうにこそ言うべきものだと思う。まあ大抵の人はお話を書いたりすることはないと思うが。
特にエロゲに言えることだけれど、”表現が丁寧な妄想”を”リアリティ”と勘違いして評価している人が多く見受けられる。本当のリアリティとは、そのお話を頭の中で想像するときにかなり細部まで世界を構築できる、ではなく、その逆、お話ではない日常にいるときにそのお話の内容が勝手に構築されるもしくは、お話の世界にいるときに勝手に日常のある部分を思い出してそのお話の世界に組み込んでしまう、であると私は思っている。つまり、自分の日常をそのお話に投射して違和感を感じない限りは、それはリアリティではなく妄想である。 書き手がこの間違いを犯した場合、それはそれは痛い文章ができあがる。書き手の妄想と理想だけで書かれているものは、その本人にしか面白さがわからない。また、丁寧な表現で偽装された妄想を崇拝する人間は、大抵よくわかっておらず、その巧みさや難解さをありがたがっているだけだ。いや、別にそれが悪いという気はないのだが。少なくとも、そうやってありがたがることによって、その作品には娯楽性や妥当性が生じている。 もっとも重要なのは勘違いをしないことだ。読み手が勘違いを起こすのなら良いが(それが主な狙いであるお話も多い)、書き手がこれを起こしてしまうと、その作品がどんなに素晴らしい要素を持っていようとただの恥さらしになってしまう。もちろん、妄想によって出来上がる素晴らしい作品だって数多くあるのだ。リアリズムとの微妙な線引きが、恥さらしとの境界線のように思う。 などとえらそうに言ってはいるが、書き手としての私はまだこの域を抜け出せていない。考えるのは簡単でも、実践するのは難しいのである。 たとえば、選択と結果が逆転した世界があったとする。 大人になると、子供のときより時間が経つのが早く感じるのには理由があるらしい。
子供のころは身体の代謝が早く、大人になると遅くなる。だから、子供のころのほうが体内時計が回るのが早く、それゆえに実際の時間がゆっくりに感じるらしい。そして大人になると、それが逆に作用して、自分の中ではあまり時間が経ってないのに、「あれ、もう夕方か……」なんてことが起こるんだそうな。 私はずっと自分の周囲の影響だと思っていた。子供のころは多くのものを自由に選択することができ、物事を自ら追うことができる。しかしある程度年齢を重ねると、自分という存在はだんだんと固定されていき、決められた場所で、決められた物に追われるだけになる。いや、だけではないな。少なくとも、そこまで絶望している人間はごく一部だろうが。 とにかく、この時間を追うか終われるかの違いが、時間の感覚に差異をもたらすのだと思っていた。もちろん、何事も能動的に扱うほうが充実できるのだし。 だけどこれを聞くと、子供と大人ではそもそものスペックが違うのだ、ということなのか。なんだか、しょせん子供には戻れない、と思い知らされた気分である。 だが 人生は愛と選択に満ちている。たとえ時間の感覚が変わっても、満ち満ちた舞台に立ち続けることができれば。子供時代には得られなかった充実を、この舞台で発見できるかもしれない。 いつまでも時間を追いかけることこそ、愚かなこと、か。夢の見すぎって言うのかな。結局、追いかけているようで追いかけられてるんだもんね。溢れんばかりの、愛と、選択。私にもこれから待ち受けているのだろうか。 わけわからんね。自分の頭の中のぐにゃぐにゃした思考を、短時間で文章にするなんてムリな話だ。 今日はもうおやすみ。 更新が滞っていますが、別に忙しいわけじゃないです。いやまあ、今までの学生生活の中では一番忙しいと思うけど(試験前とかは除く)、普通にTOVとかもしてますし。ただ、酒を飲む日が多いので、酔ってそのまま寝てしまって、更新忘れてた、というのがここ最近の状況です。というわけで、今日は飲む前に書いている、というわけです。
というわけで、今日もビールで乾杯つ日 おかずはマーボー春雨です。 つっても、近頃の日記はくだらないことばっかり書いてますね。元々このブログを作った理由は、mixiでは書けないようなことを書こう、という理由なんですよ。具体的には、エロゲの批評だったり、痛い精神論だったり、答えのない哲学的なことだったりを、誰に聞かせるわけでもなくつらつらと書ける場所が欲しかったんです。まあ簡単に言えば、独白ですよ。礼拝堂とかで懺悔するみたいな感じと思ってくれればいいです。言葉にしてみることで、いろんなことを新たに感じたりできたらいいなあ、とね。 だから、ここ最近みたいなどうでもいいことを書くだけなら、mixiでいいじゃんって感じなんですよね。特に、近況報告など、誰かに聞かせることが前提のようなことはね。元々日記ってのは自分の中だけにしまっておくものですから、mixiみたいな日記システムはおかしいんじゃないかと思うんですよねえ。まあ、そういう馴れ合いみたいなのが嫌いな人が、mixi批判をしてるのは結構見ますが。同様の理由でニコ動嫌いもいますしね。 特にねらーにニコ動嫌いが多いですが、この理由は簡単です。2ちゃんねるとの性質の違いですね。ニコ動は、極端に言えばうp主以外の個人が阻害されるべきという場所ですから。逆に2ちゃんは、共同体ではない個人の集まりです。まあそれだけで正反対ってのはすぐわかりますよね。 たとえばニコ動では、「この人の動画よりあのひとのほうが面白い」のような比較コメントが、荒らしとみなされます。これは完全に、視聴者というコミュニティを作ることによって競争をなくそう、という共産主義的な話です(まあ経済じゃないので違いはありますけど)。これをねらーは嫌うんですよね。なぜかというと、ねらーはあくまで、社会に所属する個人の一人として、2ちゃんにいるからです。そういう意味では、私は2ちゃんなんかよりニコ動のほうが、よっぽど普通とかけ離れた特殊な場所だと思います(かく言う私も、どっちかというと2ちゃん的な人間です) まあマルクス的な理論でいうと、社会は資本主義から社会主義、共産主義に進むらしいので、もしかしたらニコ動はその一角なのかも……(んなわけないか)
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